毒蝮三太夫「玉音放送は嬉しくてたまらなかった」 [811571704]
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https://blogos.com/article/554618/ /> 「ウレシくてたまらなかった」9歳で聞いた玉音放送 毒蝮三太夫が語り継ぐ戦争の悲劇
日本がアメリカに敗戦した昭和20年(1945年)8月15日、俺は9歳だった。空襲に
焼けただれた東京を離れ、親父の実家があった神奈川県戸塚の汲沢(ぐみざわ)という処に
疎開していた。そこでラジオから流れる玉音放送を聞いたんだ。
9歳の俺にはラジオから流れる言葉が難しくて詳しくはわからなかったけど、戦争が
終わったことを伝えてのは理解できた。周りの大人たちは溜息まじりにどよめいたり、
泣いてる人もいたりして、只ならぬ重たい空気になっていたっけ。
その時の俺はさ、ウレシくてたまらなかったんだ。これで戦争はおしまい、空襲はもうやってこない、
焼夷弾を落とされ、街や家を焼かれて、熱くて痛くてヘトヘトになって逃げ回る惨めな思いを
しなくていい…、そう思えて跳び上がりたいぐらいだった。
でも周りを見たらその喜びを表に出せる空気じゃなかったからさ、黙ってじっとしていたよ。
俺が戦争でいちばん悲惨な思いをさせられたのが昭和20年5月24日、25日の城南大空襲だ。
山の手大空襲とも呼ばれたこの空襲で、B29が500機も襲来した。24日には762人、25日には
3651の人が殺されてしまった。
24日の深夜に始まった大空襲で、俺は夜を徹しておふくろと逃げ回った。
そうして空襲がようやく去って朝が来て、焼けた家の方に向かって歩いていく途中、
道端のそこらじゅうに死体が転がっているのを見たよ。しつこい焼夷弾の消火に追われるうちに
逃げ切れず炎に巻かれてしまった死体、爆風に吹き飛ばされて首の無い死体、手の無い死体、
そういうのがごろごろしてた。
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玉音放送って当時の人聞き取れたの?
last-modified: 2021-08-23 22:44:15