戦時中の「生理の貧困」─古紙をあてて孤独に耐えたお婆さん [976717553]
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「生理が本当に恨めしく、辛いと思いました」。さいたま市内の図書館で戦争体験者の文集を読んでいて、そんな一文に目がとまった。生理が、戦後に書き残すほどにつらい記憶になったのはなぜか。彼女の思いを聞きたいと、訪ねた。
下半身に湿った感じを覚え、恐る恐る下着を見た。赤い血がついていた。
 「これが、そうなのか。一体、どうしたらいいの」
 1943(昭和18)年、新潟県立村上高等女学校2年生で、当時14歳だった小野寺八重子さん(92)=埼玉県草加市=は、寄宿舎のくみ取り式トイレでうろたえた。女性に生理があると何となく知ってはいたが、対処法は知らなかった。
 「古雑誌の紙を破って手でもんで、股の間に挟んだんじゃないかしら」
 使い捨てで、血をたっぷり吸収する紙ナプキンはまだない時代。専門家や資料によると、脱脂綿などをあて「丁字帯」や「月経帯」でおさえる女性が多かったが、脱脂綿は軍隊の利用が優先され一般の人は入手しにくくなっていたという。
 生理のたび使い古しの布を繰り返し洗い使ったり、紙をあてたりしてしのいだ。「ひと月に一度でもしんどかった」と繰り返す。
 でも生理がつらかったのは、物資不足だけのせいではない。相談したかった母を含め、家族の生死が分からなくなっていたことも胸に重くのしかかっていた。
 当時、家族はフィリピン・ミンダナオ島のダバオという地域にいた。
 新潟の農家の次男だった父は、18(大正7)年にダバオへ。「マニラ麻」の栽培で生計を立て、故郷から母を迎えた。そこで生まれた八重子さんは、12歳のときに新潟の高等女学校に進むため1人で本土に渡り、父の実家に預けられた。だが数カ月後、41(昭和16)年12月の日米開戦でフィリピンも戦地に。現地の家族と、音信不通となった。
 父の実家はなじみのない人がほとんどで、生理のことなど相談できなかった。4千キロ近く離れた家族の無事を、泣きながら祈っていた。孤独だった。
 44年夏、3年生のとき工場に動員された。戦況は悪化。日本が支配していた島や地域で、軍が壊滅的な打撃を受けたことが報じられた。八重子さんが預けられた家では、大人たちが「親無し子になったら、せがれの嫁にしよう」「いや、うちでもらおう」などと、自分の目の前で話していた。聞こえないふりをして、やりすごすしかなかった。
 翌年夏、日本は敗戦した。学校が再開し、生理の授業も1コマあった。11月、引き揚げてきた家族と再会できた。母は、フィリピンで激戦で多くの人が命を落としたことや、日本側が現地の人にひどいことをしたことなどを教えてくれた。
 日本で今のナプキンの原型となる「アンネナプキン」が発売されたのは、高度経済成長期の61年のことだ。2児の母親となっていた八重子さんは、病気の手術の影響で、このナプキンを使う機会はなかった。
 そして今。コロナ禍による経済的な困窮や、家庭環境などから生理用品を買えない女性がいることを、八重子さんは案じている。
 「つらいよね。私もその気持ち、わかる気がするの」(丸山ひかり)

https://www.asahi.com/articles/ASP8K7HDWP8KUTNB00Y.html

???生理はじまって何万年たってるのになにいうとんねんこのばばあ

朝日の思想全部ごちゃまぜにしたようなくそみたいな記事やな
last-modified: 2021-08-23 22:45:19